「非実在青少年」問題について。
ネットでは既にかまびすしく言われていますが。
私は人類の生殖行動について特に関心はありません。しかし表現の自由については言わねばならないと思うのです。

この法案が問題なのは
「恣意的」「主観的」であることに尽きます。

「恣意的」という言葉は判りにくいので平らかに申し上げましょう。
まず「創作物」の首に「緩い規制」という名の縄をかけます。その縄はとても緩いのでそれで取り締まられるのは○○とか△△のようなはっきりしたエロだけ、自分たちが普段読んだり書いたりしている漫画や小説には関係がない、と多くの読者・創作者が考えます。
しかし、その「緩い規制」という縄はいつでもきつく締めることが出来るのです。それが「恣意的」という言葉の意味するところです。

そして「主観的」とは何か。
それは「好き/嫌い」ということです。理屈も基準もありません。いま規制されない作品が、将来その担当になった誰かの「好き嫌い」によって「恣意的」に規制されるかも知れない、そんな危険を孕んでいるということです。

これが一番の問題なのです。

そして性暴力などを含む表現がなぜ恣意的/主観的に規制されてはならないのか。これは二次的な問題ですが念のため説明しておきます。

例えば「性的虐待で心に深い傷を負った主人公が周囲の善意や真の愛によってその傷を癒され、幸せを掴む」という物語があったとします。性暴力描写が規制されるとこういった物語も描けなくなります。


こういった物語が人目に触れないということは、潜在的な被害者、傍観者に対し「この世にはそんなひどいことも存在する」ことを黙っているということです。

人間は「他人に酷いことをしてはいけない」と言われて言葉で理解しても頭ではなかなか理解できません。それは、我々人類が共通して使っている脳というハードウェアの問題であり、我々の責任ではないのです。
しかし「それは酷いことだ」というお題目でなく、「物語」という再現劇でシミュレートされた場合、それは容易に脳に受け入れられ、心に浸透するのです。
中世においてキリスト受難劇が繰り返し演じられてきたのはそういう人類の特質に訴えるうまい手だということを彼らが知っていたからです。

それが全人類共有の文化である「物語」と「表現」の力であり、それを支えるのは「表現の自由」です。とても単純なことなのです。

「表現」を規制してはいけない。
現在この地球上に存在する民族で、物語と芸術と宗教を持たない民族を私は知らない。それは人間が人間であるという一番簡単な証明なのです。


  1. picea-glehniigreenearsからリブログしました
  2. moonsonggreenearsからリブログしました
  3. greenearsの投稿です